2012年8月24日金曜日

ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』/本広克行『踊る大走査線 THE FINAL 新たなる希望』


 一昨日、吉祥寺バウスシアターにてジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』を観てきました。出来ればタイムテーブル的にその次の時間に上映される『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』も続けて見たかったのですが、完全入れ替え制だったので断念した次第です(「金欠は生活から文化を遠ざける」という金言が心にグサグサ刺さります)。

 初めて見るカサヴェテス作品でしたが、何とも言いがたいというか、単純に面白かった/つまらなかったっていう表層的な感想を撥ね除けて、「俺は今一体何を観たのだろう」という複雑な想いで一杯になりました。
 別段話が難解という事は無いんです。病に冒された(恐らくは統合失調や躁病などの精神疾患と思われる)妻と、その妻を愛し家庭を存続させようと尽力する夫の物語。根幹となる物語自体はシンプルなんですけど、シンプルな根幹を様々な枝葉が浸食し、引き延ばし、混濁させ、一体何が正しいのか、何が良くて何が悪いのか、天国なのか地獄なのか、かなり混乱させられてしまうんですね。
 でも見終わって家に帰って飯を食って寝て仕事に行って、という時間を過ごしているうちに、段々とこの作品から溢れ出てくる「愛」を強く感じてきました。とにかく愛で埋め尽くされている。それはピュアで劇的な愛ばかりではなくて、性愛であったり愛着であったり自己愛であったり偏愛であったり、歪んだ形の愛までもが提示される。
 映画終盤、妻メイベルが精神病棟から退院してきてから、メイベルが精神に異常を来した理由として夫ニックの言動があったという事が明るみになる、という見方が多いみたいですが、では映画の中でニックが「妻を発狂に追いやった大悪人」なのかと言えば、必ずしもそうは思えない。ニックにも確かな愛がある。確かに身勝手な愛(それはメイベルへの愛だけでなく理想とする家庭像への執着としての愛もある)で、オーバードライブした結果「妻も子供も殺す」というとんでもない発言までするのだけれど、最後は妻メイベルと非常に仲睦まじい夜を迎えて映画は終わる。これは一例ですが、そういった風に様々な、一見するとエグく見えるような物も含めて、「愛」に溢れているの映画なのではと思いました。
 めちゃくちゃな事態が重なりに重なった後のラストシーン、ニックとメイベルが一緒に食卓を片付け、ベッドメイクをし、そしてニックが家の照明を一部屋一部屋微笑みながら消してメイベルの待つベッドシーンへ向かって行き、薄いカーテン越しに二人が抱擁している様が見える。という映像など、一組の男女の愛を映した物として、あまりにも美しかったです。さっきまであんなとんでもない事になってたのに、と愕然とするほどです。

 今自分で何となくですが感じているのは、『こわれゆく女』という映画の魅力を、恐らく自分は理解しきれていないだろうという事です。多分これから数年後、三年後だったり五年後がったり十年後だったり、見返した時に新たにその深い魅力に気付けるような気がします。そんな気がします。というか、そんな気にさせてくれた作品でした。観に行って良かったです。
 『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』は残念ながら期間中に観れそうにないので、どこかで又かかるのを待つかTSUTAYAでVHS借ります。





 で昨日はと言うと、知人が"踊る"シリーズの完結作『踊る大走査線 THE FINAL 新たなる希望』の完成披露試写会のチケットを抽選で当てまして、それに一緒に行ってきました。会場は有楽町は国際フォーラムのホールAです。国際フォーラムに来るのなんて本当に久しぶり。完成披露試写会なので舞台挨拶がありまして、織田裕二を始め主要キャストが舞台上に現れて挨拶などしてくれました。

 『踊る大走査線』がテレビドラマとしてスタートし、そして第一作目の映画が公開された時、僕は未だ小学生でした。実はその頃熱心に観てたんですね。なのでそのまま流れと言うか、『踊る大走査線』の映画はこれまで欠かさず観て来てたんです(スピンオフ作品とかは全然観てないんですけど)。だからずっと観て来たという意味に於いては実は愛着があるシリーズなんですね。
 そして今回のシリーズ最終作を観るに当たって、僕が一番気にしたのは一つの映画作品として面白いかどうかよりも、「湾岸署の物語を一体どう終結させるのか」という点でした(それだけと言っても過言ではない)。今回で映画は四作目になりますが、それを期待させるような流れが出来ていたと個人的に思っていたんです。

 映画一作目、面白かったです(もうずっと観てないですが)。
 二作目は「前作と同じフォーマットを続けるのはどうなの」と興醒めしました。論外。
 三作目、これが個人的に結構重要でした。これは『踊る大走査線』というフィクションの物語がフィクションとしてのアイデンティティを再獲得するために奔走してる作品で(現実にお台場に「警視庁湾岸警察署」が設置された事が多いに関係してると思ってます)、それが故に全体的にクサすぎてエンタメ作品としても面白くないのですが、作品の中での重要トピックである「湾岸署の引っ越し」=新たに"湾岸署を再獲得"する、そのためだけの映画だったと思っています。だから面白くなくてもまあ仕方ない(とも言える)。

 そして四作目。「真の新しい湾岸署の物語が始まり、そして終わる」と思って期待した上で観ました。
 四作目、個人的には良かったです。作品のエンターテイメントとしての面白さとかは、その辺ではトンデモさとか納得しにくい部分も多々あったのですが、それはこの際話の外に置いておきたいです。

 劇場公開前に【ネタバレ】気にせず書いちゃうんですけど、今作ではゾッとするくらいに湾岸署の物語が破滅の危機を迎えます。それも隠れた所に潜んでいた火種によって。
 すみれさんは映画二作目で受けた銃撃の後遺症(の悪化)によって辞職を決意し、警察上層部の権力とこれまでずっと戦って来た室井と青島は上層部の隠蔽工作に巻き込まれて辞職に追い込まれ、キャリアとしての階段を着実に昇って来た真下の、過去に下したキリャア故の厳しい判断が引き金となり陰惨な事件が引き起こされ自身の息子が誘拐され・・・と、かなり悲惨な自体が起きます。かなり暗澹としています、絶望です。
 ですがこの絶望的な表層を支えている裏側がかなり複雑な事になっていて、結果的にはこの絶望が炸裂するように解決し、全ての危機は回避され、室井を中心とする警察組織を抜本的に改革していくための委員会が設置されたりして、希望に溢れたラストを迎えます。

 このラストは、青島と室井、要するに『踊る大走査線』という物語がずっと抱えていた問題である「あまりに政治的である上層部と理解されない末端の現場」が解決される方向にドラマが遂に動いた訳で、シリーズ最終作としてとても相応しい結末ですし、それがあの強烈な"破滅と絶望"を乗り越えた末に劇的にやって来る結末なので、カタルシスに近い感覚があります。

 なのでこれまで"踊る"の映画を観て来た一ファンとしては、見終わって「こうやって終わってくれてよかったな」という安心にも似た気持ちでした。

 でもですね、さっき話の外に置いてとか何とか書きましたが、映画作品としてはどうなのかなと思う事もやっぱりあります。トンデモな場面とかがあるのは未だエンタメ作品として仕方ないとして、「裏側がかなり複雑」と書きましたが、本当に複雑です。というか実は異様に入り組んでいるという程ではないのだけれど、バラしの場面が非常に少ないので、観る人によっては訳が解らない映画になってると思います。
 僕もちゃんと構造を把握出来たのかちょっと不安なのですが・・・、鳥飼が警察組織を改革したいがために、真下の過去の"厳しい判断"によって傷つき恨みを持った警察職員をそそのかして事件を起こさせ、それは要するに現役の警官に寄る殺人事件であるために上層部はそれを隠蔽しようとし、その必然的に現れた隠蔽を鳥飼が告発する。という事で、合ってたんでしょうか、僕はそう読みました。結構複雑ですよね。この裏の構造に表層の青島などのキャラクターが翻弄されていくのだから、また読みにくくなります。
 この複雑な構造は、「やったー!踊るの新作だー!」と楽しみワクワクで観に行く感じのお客さんには伝わらないんじゃないかと思います。解りやすくてハデなエンタメ部分だけを楽しんで、後は「よくわかんなかったけど良かったかな」みたいな感想になっちゃうんじゃないかと思います。それってもしかして、シリーズ最終作としては良くないのかな・・・?
 最終作という事で脚本が意気込みすぎていたのかもしれませんね。もしかしたらもうちょっと水増しして解りやすい場面とか増やしたら映画二本分とかになったかもしれない。


 今日は仕事終わってから髪を切りに行きます。夜はたぶん普通に出かけるので、それまでにこの前テレビで録画した『大鹿村騒動記』を見れたら見たいですね。


 なんか映画の事ばっかり書いててシネフィルみたいでアレというかただの映画ファンのブログみたいになってますが、僕の本業は音楽、副業は現代詩です。その辺の話も出来る時はしたいです。

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